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浮気の旅に出たクリスティアーノ・ロナウドさんの帰りをルーと一緒に待ちくたびれて腐った浮気に走るブログ。さらに腐敗が進む。止まらない。
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日本語版を読了しました。
じぶんの訳がえらく誤訳なとこがあって笑えましたw
でも私の訳のがいい訳じゃん!と思うとこもありました。プロの訳者に対抗しようなんてわし、身の程知らずなw
こんなに安く翻訳してもらえるなんてやっぱり他人様と資本主義(?)の力はすごい。翻訳者様ありがとうございます。
しかしせっかく、例の人のまったく出てこない、ロンロンが突然登場する嘘っぱちな本にしようと目論んでいたのに…(それはただの同人誌ですから~~>自分)
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僕が覚えているもう一人の女の子はダウン症の女の子で、彼女は僕より2こ年上だった。
彼女は、僕たちが男の子たちとフットボールをすることを許容している唯一の女の子だった。
彼女はとても強いタックルをして、いつも僕のひざを蹴った。ある日、彼女はとても強く僕の指をつかんだので、僕は逃れることができなかった。僕は彼女を押したり引っ張ったりした。しかし彼女は僕の指をかたくつかみつづけた。最後には僕は指を自由にすることができたが、指がすりむけてしまった。しかし彼女はナイスガールだった。僕はいまだにCroxtethに帰ると、時々彼女を見かけ、彼女のうわさを聞く。
僕は学校を愛していて、先生たちが好きだった。僕は問題を引き起こすこともなく、良いレポートをもらった。
1995年7月のレポートでは、僕は9歳だったが、今ではそれを思い出すことはできないけれども、僕が音楽を楽しんだと書いてある。そのレポートは、ペール・ギュントのお芝居を僕が演じたと書いてある。僕の一番成績の良かった教科は宗教教育だと思う。
「ウェインはイエス・キリストの生涯をとても詳しく話すことができる」
うん、それはまったくその通りだ。

次の年、10歳になったとき、僕は「数学がとても優れている。そして新しい概念をとても良く理解できる。」
僕は今でも数学が好きだ。
僕の身体についてのレポートは興味深い。
「ウェインはときどき騒々しい。そしてこれをコントロールするすべを学ばなければならない。」
へえええええ。ふ~ん。(意訳)
僕は少し騒がしいくらいが好きだ。それがいったい何だと言うんだろう?

僕はカトリック系の小学校に通っていたけれども、僕の家族はいつも教会にいくわけではなかった。
僕は、神父が一週間に一回僕のうちに集金に来ていたのを知っている。
僕はもちろん神様を信じていて、学校でジーザス・クライストの絵をかいて、夜は祈っていた。日曜に、エバートンが勝ちますように、と。











僕の最初の記憶は、いまだにしばしば僕の頭によみがえるんだけど、5歳のとき家で起こった事だ。グレームが突然家の外の通りに飛び出して、僕はすぐ彼を連れ戻そうと彼のあとを追いかけた。
僕はくつをはいてなくて靴下だけだった。僕は走り出したとき、足を床にすべらせて、ひどく怪我をした。
親指のつま先のつめ(?)がむけた。
くつをはかなかったことで、僕は母に殴られたと思う。
僕の母は僕たちをしつけるために足の後ろから平手打ちを使った。
たいてい僕たちが遊びすぎるために。
僕は僕の弟たちをたきつけて対峙させて、トラブルを引き起こして、
それから僕は、うるさいのは弟たちであって僕じゃないと母に言った。
僕の父は強いボクサーだったけど、僕を決して殴らなかった。
ストーンブリッジ・レーン学校のあと、僕はアワ・レディ・アンド・セント・Swithin’sというローマカトリックの小学校に進学した。家から歩いて10分だった。
僕たちは赤いタイとブレーのジャンパーとグレーのズボンと黒いくつの制服を着なければならなかった。
しかしトレーニングシューズとフットボールトップスが許されていた。
僕の母は同じ学校に通っていた。
そして母を教えた教師が二人、僕も教えた。
僕はミス・ケリーが大好きだった。なぜなら毎日、彼女は良いふるまいをした子どもにクリームエッグをくれたから。僕はそういつも勝てるわけではなかった。僕が勝ちたいと思っているよりは少なかった。
最初の2週間、僕はすべての男の子と話すのを拒否した。なぜかはわからないけど女の子としか話さなかった。僕は女の子といるほうが好きだった。それから、2週間後、僕は男の子たちがみんなプレイグラウンドでフットボールをしていることに気がついた。それで僕は外に出て、その仲間に入った。
6歳のとき、僕のクラスにとてもかわいい女の子がいた。僕は彼女の誕生日を調べて、お金をため、あるいは母から借りて、箱入りのバラのチョコレートを買ってポケットに入れた。
僕はチョコレートを学校に持っていった。
そして先生に、これは彼女のバースデープレゼントだと言った。
先生は、クラスに彼女の誕生日を告げた。そして僕に、彼女にチョコレートを渡すように言った。僕は喜んで、誇りに感じた。しかしもちろん、クラスの連中は僕をあざけって言った。
「彼女はガールフレンドなの?ウェイン」
僕はすぐに赤くなって恥ずかしくなった。


日曜の夜の鬱状態に対処するための作業療法に入ってまいりました。
ふ~ん。イングランドの出生証明書ってこんななんだ~。

父の方しか職業欄がなくて、
母の方は少女時代の名前と、もし結婚後に違う姓になるならその名前って…。
しゅごい。
…と思って調べてみたら、イングランドの結婚証明書は
結婚後の苗字を書き込む欄がないんですって。
つまり普通にご夫婦は同姓でも別姓でもよいらしい。
ふ~ん。

僕はFazakerleyホスピタルで1985年10月24日に生まれた。
僕は3日早産だった。体重が8 Ld 6 Ozだった。
僕はウェイン・マーク・ルーニーと名づけられた。
マークはファミリーネームだ。
僕の父は、職業が「ユースワーカー」と記載されている。
僕の母は、僕が青い目と三色の髪の色を持って生まれてきたと言った。
ブロンドとダークと残りがねずみ色である。
僕の両親は再び母が妊娠する17ヶ月後まで結婚しなかった。教会の結婚式ではなかった。神父はすでに子どものいる夫婦の教会での結婚式を歓迎しないんだと思う。それは地方の登録所での結婚式だった。1987年3月21日だった。150人の客が地方のパブに招かれた。それは両親の母が支払った。両親には都合することができなかった。母は小さい子どもを抱えて働くことができず、父は週給120ポンドで働いていた。当然ハネムーンはなかった。
1987年10月15日、弟が生まれた。彼のフルネームはグレーム・アンドリュー・シャープ・ルーニーで、エバートンのストライカー、グレーム・シャープから名づけられた。もう一人の英雄はブルーズの伝説のスコットランド人であるアンディ・グレイである。
二番目の弟ジョンは、1990年12月17日に生まれた。母は女の子が欲しかったのだと思う。しかし僕の両親はそれ以上子どもを持たなかった。
1986年1月、僕の両親は、三つのベッドルームのあるカウンシルハウスへ引っ越した。
僕たちは12歳になるまでそこで暮らした。そこは子ども時代の家として僕がもっとも覚えている家だ。
良いことに、家の後ろには僕の父が仕事を得ることのできるユースクラブとジムがあった。5面のフットボールグラウンドがあって、僕は壁をよじ登ってそこに遊びに行くことを愛した。
僕は4歳ごろから幼児クラスに通い始めた。でもそのときの記憶はない。母は僕が3歳ごろのことを思い出すことができるらしい。僕は卵をスプーンにのせて、またはのせないで、長い距離でも短い距離でもあらゆるレースで誰にも負けなかった。
母は僕たちのスクールレポートをプラスティックのフォルダーにつづってとっておいていた。

最初の僕の成績表は1992年、僕が6歳のときだ。
英語は「たくさんのサポートが必要です」
しかし数学は「新しい概念をすばやく把握しており、よいメンタルスキルを持っています」
技術は、「カードやモデルを作ることを楽しんでいます。製パンと縫い物を楽しんでいます。」
PE(?)は「とても鋭くagileです」
全体評価はよく、コメントは「ウェインは1年生の中で標準です。彼はよく勉強し、トラブルはありません。」


9歳のとき。僕はボウタイが嫌いで、教会を出るとすぐそれをとってしまった。
でも母はこの写真を愛している。

1 ご家族

僕は父の望みでアドリアンと名づけられるところだった。
ちょっと豪華だけど、自分のような気がしない。
もし違う名前で人生を送ったら違う性格になったんだろうか?
最終的に、母は僕の父がその名前をつけるのをあきらめさせた。
父はエバートンのスター選手、アドリアン・ヒースからその名前をとった。
彼は小さい選手で、とてもすばやく、利口だった。
彼はのちに Peter Reid とともにコーチになり、サンダーランドの監督になった。

そして僕は洗礼を受けウェインと名づけられた。僕の父の名をとって。
僕の母は、最初に生まれた息子は父親の名を告ぐべきだと主張した。
それは彼女の家族の伝統だった。
ルーニーファミリーは僕が思うには、アイルランドから来たに違いない。
いつ、どこから来たのかはわからないけど。
たぶんかなり前だと思う。エメラルド島(?)から来たという記録は何もないので。
誰かが今、家系図を作ろうとしているので、興味深い結果がわかったら知らせられると思う。
セカンドスクールに行くまで、僕はアイリッシュの家系だと気がつかなかった。
先生の一人が、新しい生徒のリストを見て、変わった名前の生徒にコメントした。
「あなたはスコットランド系の家族ですね、あなたはウエールズの血統ね。ルーニー、あなたはたぶんアイリッシュです。」
僕は家に帰って、父に聞いた。
「僕たちはアイリッシュなの?」
「どうやったらオレにそれがわかるんだ」
父は答えた。
he has always been fairly laid back. (彼は公正にいつも後ろの位置に保たれていた???)

家族内では、彼はいつも大きいウェインとして知られていた。
一方で僕は小さいウェインだった。
14歳になると、そのことは僕をいらいらさせた。
僕は彼より大きくなった。彼は5フィート6しかなく、母より2インチ背が低かった。
しかし彼らはまだ僕を小さいウェインと呼び、父を大きいウェインと呼んだ。
僕の父はリバプールのCroxtethで1963年6月1日に生まれた。
彼の父は肉体労働者としてカウンシルで働いていた?
それが僕の知っているすべてだ。
僕たちは彼をリックと呼んでいた。だから彼は洗礼名がリカルドだったんじゃないかと思う。
彼は僕が10歳のときに亡くなった。
僕は僕の偉大な祖父について何も知らない。彼がどこから来たかとか。
僕の家族は誰も家系図に興味がなかった。
僕の父は8人兄弟で、4人の兄弟と3人の姉妹がいる。
彼らはみなローマンカトリックだ。
でもいつも教会に行くというわけではない。僕たちもそうだ。

父は16歳で学校を卒業し、どんな試験にも受からなかった。彼は店が閉店するまで2年間、お肉屋さんで働いた。そしてその後、ユースクラブで働き、建設現場の一般的な肉体労働者になった。
彼はしばしば仕事をやめた。だから僕たちは、僕が成長するまで、たくさん金があるわけではなかった。
僕は、小さいころ車もなかったけど、何か欠けていたとは思わなかった。
僕たちがついに車を持ったとき、それはいつもがたのきた車だった。

父は偉大なボクサーだった。それは彼の家族の遺伝だった。
ルーニーの家系の多くの人がファイターだった。
彼らのうちの一人がSt Theresa というボクシングクラブを経営していた。
僕は今、彼のウエートがどのくらいだとか彼が僕を強打するとかは言わないつもりだ。
当時彼はライト級でリバプールやノース・ウエスト地方の大会に出た。
彼が大会に勝ってカップを勝ち取った写真が今もある。
彼の兄弟も大会に勝っていたけど、僕は父がその中でも一番強かったと思う。
プロになることもできたと父は言う。しかし父は悩まなかった。
僕は父がトレーニングとコミットメントが気に入るとは思えない。

母は1967年3月14日に生まれた。母のファミリーネームはアイリッシュでなくフランス系だと、彼らは信じてい
る。しかしその歴史は誰も知らない。母は9人兄弟だった。そして彼らは僕の父の家族から1マイルの距離に住んでいた。
僕の家族はローマンカトリックで、教会に常にいくわけではないが、エバートンの狂信的な信者だった。
エバートンがリバプールと戦うダービーの日には、家の前をブルーに飾った。
母の父はメタルボックスカンパニーで働く労働者だった。かつて彼はセミプロのフットボール選手だった。
母の兄弟もまたスポーツマンだった。
母もスポーツがうまかった。彼女はランニングとネットボールとラウンダーを学校でプレイした。
彼女は学校を16才で卒業し、タイピングのコースに1年間通った。
彼女はオフィスで働きたかったが、採用がなかったため仕事から離れた。


以下ルーパパとルーママの安易な人生は
わしが訳しててバカバカしくなるのでカット~


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